スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2023の投稿を表示しています

たとえ友人でも、相手の主体性を尊重する - 相手の決断を尊重すること

 第1章 相手の主体性を尊重することの重要性 人間関係を築くうえで、相手の主体性を尊重することは非常に重要です。相手が自主的に判断し行動する自由を認めることで、相手は自分らしくいられます。一方的な押し付けはかえって関係を損なうでしょう。 相手の主体性を信じることで、相手は自信を持ち、可能性が開花します。人は自分の決断とその結果に対する責任を取ることで成長できるのです。相手の自主性を奪うのではなく、尊重することが大切です。  主体性の尊重は相手への信頼と敬意の表れでもあります。相手の意見や選択を否定するのではなく、受け入れる寛容さが必要です。相手の人格と個性を理解し、支え合う関係を築きましょう。 人は誰しも、自分らしく生きる自由を求めています。相手の主体性を尊重するのは、その自然な欲求への配慮といえます。 win-winの人間関係を築くには、この姿勢が欠かせません。 第2章 過剰な関与はかえって有害になる  過剰に相手の行動に関与することは、時に思いやりの裏返しとなります。相手の自主性を奪い、自信を低下させてしまう結果にもなりかねません。 関与のしすぎは、相手を子供扱いするような印象を与えてしまいます。相手の意思が軽視されていると感じ取られる可能性もあります。過保護にならないよう注意が必要です。 むしろ、相手が自分で判断し行動する過程を大切にするべきです。失敗があっても、そこから学ぶ経験となります。寄り添い、相手の葛藤を理解することが必要です。  過剰な関与は親しみの表れであっても、相手の自立を阻害することになりかねません。相手の主体性を支える関わり方が求められます。 第3章 相手のペースを尊重する関係性 人にはそれぞれのペースがあり、それを尊重することが大切です。相手の行動の遅さにイライラしたり、スピードの違いで対立が起きてはいけません。 むしろ相手の個性としてペースの違いを受け入れ、我慢強く付き合う寛容さが必要です。時にはゆっくりと歩調を合わせることも必要でしょう。 相手のペースを強制的に変えようとするのは、関係を損ねる原因となります。相手の心情を汲み取り、可能な範囲で歩みをそろえる努力が望まれます。 お互いの違いを理解し合える関係があるなら、ゆっくりとした相手のペースもまた愛おしく感じられるのではないでしょうか。 第4章 相...

相手が話題を脱線させた場合の対応 ― 自分の義務ではない

議論や対話している最中に、相手が当初の話題から脱線し、関係のない話に方向転換することがあります。このような場合、自分には話を元の軌道に戻す義務があるのでしょうか。本解説では、この点について論じたいと思います。 話題の脱線は相手の責任 話が脱線するのは、話題提供者である相手の意思決定によるものです。したがって、話がその場で方向転換した責任は相手にあると見るべきです。 自分が話の監督責任を持っている訳ではありません。監督責任を放棄したのはむしろ相手の方です。従って、話題が元の軌道を外れたことの責任は相手が負うべきなのです。 自分に脱線修正の義務はない 話題設定の権利も責任も相手にある以上、自分には脱線した話題を強制的に修正する義務はありません。むしろ、相手の提案した新しい話題の方向性を尊重するのが礼儀正しい対応といえるでしょう。 無理に話を元に戻そうとする必要はなく、相手が望む新たな話題で議論を進めることを選択肢として検討可能です。話題設定権は相手にあることを認め、それに従うことが賢明な対応となります。 最後に 以上より、相手の脱線がその人の意思表示である以上、自分には話題を元に戻す義務はないと結論付けられます。むしろ脱線した新話題の有用性を探る柔軟な姿勢が望まれます。話題権は相手にあることを尊重し、新たな方向性を歓迎するのが賢明な対応といえます。

私には○○する権利がある と発言しているときには○○する権利など無い状態である

「私には○○する権利がある」という主張はよく聞きます。ただ、この言葉には無意識に抜けているところがあります。 まず、この主張をする人は既に○○に関する権利を持っていると考えています。これが、間違った認識なわけです。 では○○を具体的にしましょう。「私はこのグループに参加する権利がある」と主張している場合は、現在そのグループに入ることが認められていないということになります。仮にグループに入ることを認められていれば、そのような主張自体が無意味なわけです。 本書の ページ 156ではこの疑問に関して明確な回答を提示しています。 「私はキッチンを綺麗に使う権利がある」と家族が言っている場合、その家のキッチンは汚く、他の家族が散らかしている状態なわけです。 だから、「私には○○する権利がある」と言う場合は、その時点では権利など無いわけです。そして、その言葉は状態ではなく、未来への願望と他人に対しての主張があるわけです。 最後に、このことをAIチャットでディスカッションしてみました。是非、読んでください。 AIとのディスカッション Q: 自分には権利があるとう言動は、その権利を現在持っているわけでは無く、ない権利を要求していると考えてよろしいでしょうか? A: はい、「自分には権利がある」と主張する場合、必ずしもその権利が現在認められているわけではないというご指摘は妥当だと思います。 「~する権利がある」と主張されることの多くは、現状としてはその権利が保障されていないにも関わらず、あるべき権利を訴えている場合が多いと考えられます。 例えば、以下のような主張が該当すると思われます。 女性の社会進出の権利 同性婚の権利 医療への平等なアクセスをする権利 宗教の自由に関する権利 これらは、現状としては保障されていない権利を訴える主張です。 したがって、「~の権利がある」と主張する場合、それが現在の権利かあるべき権利かを明確に区別する必要がある、というご指摘は妥当だと思います。 Q: 自分自身が権利が認められていると認識がある場合、「私には権利がある」と主張などしないと考えてよろしいでしょうか? A: はい、その点についてはおっしゃる通りだと思います。 自分自身がある権利を現在認められていると認識している場合には、「私には権利がある」とあえて主張する必要はないと考えられます。 なぜなら...

フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方 をAIチャットで読みながら会話してみました

AIチャットは一時的に話題になりましたが、今では使えている人だけが使っている感じです。元々論文を読むような研究者、学者、医者、ITなどの専門家だけが使い、一般人にはそれほど普及していないと考えます。 正確には専門家はAIチャットを議論やブレーンストーミング、アイデア出し、頭の整理のために使っていますが、一般の人はネット検索と同じで、単発で質問して結果を得ているだけです。 料理のおいしいレシピについてはAIチャットで聞きますが、ここから疑問点や足りない食材を補う方法など追加で質問することはありません。ただ、これではAIチャットのごく一部しか活用していないことになります。 私はAIチャットを使う最初の方法として読書をお勧めします。読書会でみんなで一つの本を相談しながら読む事はよい事ですが、そういう機会は非常に少ないです。また、自分が読みたい本の読書会が開催されているかもわかりません。 だから、その相談役をAIチャットに行わせるわけです。 以下は私がAIチャットで読書した結果です。分かりやすいようにAIチャットにまとめてもらいました。 【はじめに】 本レポートでは、チャット内で議論された「本書」の主な内容について整理する。本書は、「バカ」と呼ばれる人々への対処法を提言した書籍である。 【本書の主な主張】 バカは行動様式であって人格的特徴ではないと定義づけている。 バカへの対処として、まず自分の中のバカな部分を自覚することを重視している。 バカだと決めつけること自体が最もバカな態度であると警告している。 感情の抑制と適度な表出のバランスが重要だと提言している。 バカに対する報復ではなく、建設的win-winの関係構築を目指すべきだとしている。 【まとめ】 本書は、偏見から自由な多面的な視点と、自己省察と他者理解の姿勢を説いた意義深い一冊である。「バカ」をめぐる対人関係の知恵が詰まっている。 以上が、本チャットで議論された本書の主な内容のレポートです。ご確認いただき、要約の妥当性をご意見いただければ幸いです。 こんな感じで読書中のチャットをまとめてくれます。これを読んで自分の理解した内容とAIチャットが感じたことの間に差異が無い事を確認すれば本の内容が頭に入りやすいと考えます。

自衛隊は軍隊という解釈で良い場合もあります

自衛隊は軍隊ではないという解釈があります。実際、日本の政治上では軍隊を持っていないという体裁を整えています。ただし、政治経済の一般的な書籍では正直そんなことはどうでもよいです。 大雑把に「軍隊=自衛隊=国防力と安全保障を提供する組織」という認識で問題は無いと考えます。別に何かの主義主張とか日本は軍隊を持つべきだみたいな話をしているわけではありません。 ただ、経済書に書かれている「軍事力」と言う言葉では自衛隊も含めても良いという考えです。仮に「世界の軍事力」と書かれていた場合、アメリカ軍、イギリス軍などと同列に自衛隊も含めても良いわけです。 と言うか自衛隊は軍隊ではないとか細かいことを言っている方々も、「日本の軍事予算」と言う言葉に何も疑問が無いわけです。仮に本当に自衛隊が軍隊でなければ日本の軍事予算はゼロ円なわけです。そう、そもそもそういう突っ込みをする人って特に一貫性が無いので戯言だと思ってよいかもです。 全ての書籍には説明したい「メイントピック」が存在します。そして、それに注力するために細かい部分の説明を犠牲にすることがあります。「NHKを国営放送だと言う」「接待交際費を販促費用と呼ぶ」などです。それらをマーケティングの話としているのであれば大した問題ではありません。ただ、実際は「NHKは公共放送」「接待交際費は販促費に仕訳されない」などの間違えはありますが、放送の話や会計論の話をしているわけでは無いので深い突っ込みは無用です。下手に突っ込むと話をサボタージュしているのではないかと相手に誤解されます。 ハッキリ言ってそのような行為は、「邪魔したい」「相手が気に入らない」「自分の知識を無駄に披露したい」という害ある行動です。 レイダリオ氏は実業家です。歴史家でもないし、軍事評論家でも、会計論の学者でもありません。だから、細かいところが間違っていたとしても問題は無いと考えます。 レイダリオ氏は本書のページ 199 で「国内の強さと軍事力の強さは密接にかかわっている」とあります。それはアメリカやイギリスは当然として、日本にも言えることです。そして、レイダリオ氏は日本の自衛隊も軍隊だとして話を勧めています。 本書は非常に内容が多いです。だから、メイントピックではない部分に気が散らないように集中して読むことが重要です。 自衛隊は軍隊である! 少なくとも本書を読み進める上で...

バカに注意する前に、具体的に何に対して反応しているか自問してください

あなたの前にバカが現れた場合、注意したりするなど反応する人は多いです。しかし、本書ではそれはよろしくないとしています。理由は、バカがあなたに対してどのような害を与えたかまだ分かっていないためです。良くある例えだと、「診療せずに処方する」と言うものです。どうですか? 医者があなたを診断もせずに治療法を提案されたらどう思いますか? そんな医者は信用できません。そして、あなたはその医者のように自分自身を診断しないで薬を小穂しているわけです。 バカに苛立ちを感じた時に、具体的に何によって傷つけられたのかを確認することは有効だと思います。 以下のようなメリットがあると考えられます。 漠然としたイライラではなく、自分が具体的に何に腹を立てているのかを自覚できる。 自分の価値観とのギャップを認識し、冷静な分析がしやすくなる。 傷つけられた要因を特定することで、その要因を軽減する方法を考えられる。 自分の反応の大きさが傷つきの内容と照らし合わせて適切か判断できる。 自分の認識の甘さや勘違いを発見する機会ともなりうる。 傷つき方を知ることで、回復する方法を見出せる可能性もある。 したがって、ご質問の方法は有用なアプローチだと言えるでしょう。

大雑把なバカな分類 フランス哲学教授に学ぶ 知れば知るほど疲れないバカの上手なかわし方

本書では、極力バカを分類しないとしています。理由としては 本書がバカの分類を避けているのには、以下のような理由が考えられます。 バカの定義や範囲自体が曖昧で、明確な分類は困難。 特定の分類に当てはめると、その人の本質を見失う危険性がある。 一人の人間には多面的な側面があり、状況によってさまざまに変化する。 特定の分類で人を判断することは、偏見や差別を生む可能性がある。 分類すること自体が、バカの特徴の一つではないか。 むしろバカの背景を理解し、個別の対応を考えることが建設的。 バカもまた、成長と変化の可能性を秘めた人間である。 分類ではなく包括的な視点で向き合うことが大切。 このように、本書はバカの分類ではなく個別の理解を重視していると考えられ、それは偏見を避ける上で賢明なアプローチだと言えるでしょう。 としています。この手の本で勘違いされるのは、「自分とは違うバカと言う集団の意識をより強くする」というものです。本の外観やプロモーションもそれを煽るようなミスリードをしています。しかし、少し読めばそんな本ではないことが分かります。 そう、本書は「バカと言う動物図鑑」じゃないわけです。 ただ、それでも大まかにバカの特性をまとめているところもあります。今回はそれを説明します。ページ5ではバカな人が行う事として 戯言 偏見 迷信 不寛容 先入観 教条主義 虚無主義 としています。戯言とはいわゆる屁理屈の事です。いわゆる揚げ足取りです。偏見は自分と相手を同じ領域で見ないというものです。迷信はいわゆるオカルトとか噂話です。先入観は見てもないアニメを見たかのように言ってしまう事、教条主義は「先生が言っていたから」というもの、虚無主義は学校なんて、会社なんて意味が無いという事です。 どうでしょうか?これらの分類に当てはまる問題は見たことが無いでしょうか? 本書を読む前に是非考えてみて下さい。

フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方 実は誰がバカなのか分かると衝撃的です

バカを何とか!という本の殆どは、「バカじゃないグループに属する自称バカじゃない自分」が「バカと決めつけたグループを攻撃する」本であったりします。また、自分が決めつけたバカ像を他人に同意してもらいたいという傷の舐めあい系だったりします。 そう、自分はバカじゃないけど、バカを相手しないといけないと勝手に困っている人が喜ぶ本であったりします。 今回紹介する『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』はそれらとは大きく違う本です。 マーケティング的には同類の本として売られていますので、幸い勘違いして手にされた方は違和感があると思われます。 この本の大きなポイントは、バカのステレオタイプ的分類を意図的に避けているところです。著者のマクシム・ロヴェール氏によると、このような分類をすると皆さんは短絡思考をしてしまうから避けたという事です。そう、一例だけを提示すると自分はそういうキャラではないから安心と言う誤った考えを持つ危険性があるわけです。 本のすべてを書くとネタバレと著作権的に問題があるので一部だけにしたいと考えます。 本書では「バカを観察する者はいなく、当事者しか存在しない」としています。あなたが誰かをバカと認定したらあなたもそれにかかわっているという事なのです。これは、この本を読むテーマとして重要になります。 次に「バカは絶対的なものではなく相対的なもの」としています。単に二者間の程度の違いの話で、今目の前にいるバカは、場所や時間が変わればバカではないか、さらにひどいバカであるかどちらかと言う事です。これは皆さんにもあるのではと思います。若い時に一緒に遊んでいた仲間も今では会いにくい関係になっているなどです。これはよく聞きます。 最後に、あなたがバカだと思っている人も、相手もあなたをバカとしています。 この本では「バカの上手なかわし方」とありますが、バカとは人物を示しているわけではありません。状態を示しているわけです。そして、その状態はあなたの心の中に発生するわけです。その状態をかわす方法が本書に書かれているわけです。ここまで書けば分かったと思いますが、バカとは主体性を持った動物すべてに当てはまる事です。 著者は家にいるバカに仕事や生活を荒らされていると書いています。結論は書かれていませんが、私はペットとしての犬だと考えています。 その犬に関するバカは...

釈迦に念仏 は大きな悪影響があります

「釈迦に念仏」という言葉があります。意味としては「達人に対して素人が教える」みたいな意味です。そして、この意味はどちらかと言うとウザい事はするなと言う考えが強いです。 達人に説明をしてもウザいだけだからやめよう。という感じです。迷惑なのは達人側で、念仏を唱える側の悪影響については言及されていません。 これに関して「レイ・ダリオ氏」はやや異なった意見を言っています。 『人生と仕事の原則』のページ404では、「ベーブルースから野球のレッスンを受けているときに、野球を知らない人がルースに対して議論を吹っ掛けることは、全体に害がある」としています。 そう、釈迦に念仏は釈迦だけが迷惑なわけでは無く、その周りの人全員に問題があるわけです。 ただ、ダリオ氏も「ルースが最高のバッターであったとしても、その指導を全て鵜呑みにすることも間違っている」としています。 「釈迦に念仏」や「野球素人がベーブルースにバッティングの議論を吹っ掛ける」事は意識して止めてください。 そして、誰しも自然とやってしまっています。 この癖を止めるには、こちらが教わっているときは聞くに徹することだと考えます。反対に指導しているときに批判されたら、「よく知っていますね。本当に私の指導が必要なのですか?」と返してください。 これが平和で時間を有効活用できると考えます。

ルボンの群集心理の「黴菌」という言葉に反応するとタレブにバカにされます

ギュスターヴ・ル・ボンの著書である「群集心理」のページ19では群集を「黴菌」としています。これに関し武田砂鉄氏はNHKの番組の中で反応しています。おおよその意見としては 「今、こんな発言をしたら絶対炎上する」 です。私も一瞬そう思いましたが、原文を当たってみることにしました。こういう意味でインターネット時代はうれしく、群集心理の原文を見ることが出来ました。もちろん、私はフランス語は読めないので、とりあえず該当の部分を日本語版と比較して突き止めました。 Google翻訳を使ったところ、黴菌と訳される部分はmicrobesと書かれています。フランス語の意味は単に微生物です。 そう、群集心理の日本語訳がやや変なわけです。日本語で黴菌(バイキン)とは、「当事者に悪影響を与える微生物」という意味で使われています。だから、そんなものと人間を一緒にしたらいけないという意識が働いたと考えます。 すこし訳者を恨みたくなりますが、ある意味これもプロモーションとか販売促進の一環かもしれません。人々を黴菌扱いする本と言うことで炎上して話題になるわけです。そう、今でいう炎上マーケティングです。 ちなみに、黴菌と言う単語は冒頭で出てくるだけで、後は微生物とか適切な言葉が当てられています。だから、私は最初に黴菌と言う言葉を使ったのは販売促進の手法なのではと考えています。 他にはこの現象は人々の短絡的な部分を表に出しているのではと考えます。そう、言葉だけに反応して動くわけです。文章全体を見て判断するのではなく、単語で脳が逝ってしまうわけです。まあ、最悪です。ChatGPTは賢くなっているのに、人間の方は昔のデジタルコンピュータによる構文解析以下の知性になっているわけです。 痛烈に人を馬鹿にする「ナシム・ニコラス・タレブ」という著者は、単語だけで反応するのは良くないと言っています。まあ、当人はアホとか馬鹿とか間抜けとか言っていますけど。 「バカな人はココナッツ島でココナッツを探す」と言っています。正直、私はココナッツ島は知らないですけど、文脈から言うと「ココナッツ島という場所は名前だけでココナッツなど無い」と思われます。これに対して、そういう名前が付いているからココナッツがあると思い込むのは短絡思考すぎると警告していると考えます。 タレブは「宗教」と言う言葉は場所や時代で示している物は全く違うと言っ...

定例会議は全体の効率を上げる

最近はデジタルツールの進歩で昔ながらの定例会議は減っています。10年前ですら私の所属していた会社も定例会議と言うものがありませんでした。疑問に思ってマネージャーに聞いてみましたが、話したいことがあれば個別に話せばよいし、グループウェアや社内のシステムに入力すれば良いとのことでした。 実は私の人生では定例会議が無かった職場はそれが初めてでした。大体は週一での全体会議がありました。現場作業ですと毎日朝礼があったりします。 私としてはそれらは、情報の共有として良い仕組みだと考えていました。私の言いたいことも全体に伝わりますし、他のスタッフも同様です。 ただ、定例会議が無い組織ではそれはありませんでした。 案の定、定例会議が無かった会社では、トップダウンの指示だけで、ボトムアップと言うか現場の情報がそれぞれの個人で止まっていた感じがあります。 当然聞けば教えてくれますが、全員と立ち話する時間も無いですし、そもそもその情報の存在を知らないわけだから無理なわけです。 ただ、レイダリオ氏は ページ531で「精密に組織を動かすには定例会議をしよう」と提案しています。 残念ながら、ダリオ氏は理由の詳細は説明していません。なので気持ち悪さは残りますが、ダリオ氏又は彼の会社であるブリッジウォーター社は当然定例会議が行われていると考えます。 私としては、最初に述べた通り定例会議があればお互いの情報をシェアできて役立つことは多いと考えます。そのため賛成です。 ダリオ氏の本に関しては、この件に関して「定例会議は良い」と言っているだけで理由を深堀していないのが残念なところです。

価値観を共有できない人とは関わらないのが平和

人生を無駄にしている一つの原因は、「価値観が違う人を説得しようとしている」ことです。良くあるのは、自分が「簡単に」理解できることは相手も当然簡単に理解できると勘違いしていることです。 この勘違いによってお互いがストレスになるわけです。絶望的ですが幸いなこととして、「人の性格は変えられない」と言うものがあります。最悪な例として「刑務所」とか「更生施設」が失敗している点です。私の意見ですが、どちらも懲罰としての機能しか満たしていないと考えます。 そう、国の賢い方々も人を更生することは無理なのです。だから、分野外であまり賢くない私たちも出来ないのは無理なのです。 レイダリオ氏は ページ399 同期をとる で「価値観での違いを調整できない…その人との関係を保つ価値があるか」と言っています。 そう、ダリオ氏でもお互いの価値観を調整することは出来ないわけです。無理なら関係を止めると言っているわけです。 最初に言った通り、人生を無駄にしている要因としては、「人は説得すれば必ず理解できるという幻想にとりつかれているところです」もちろん、そういうケースが完全に無いわけではありませんが、殆どないと考えても良いわけです。 ダリオ氏などの有名人が言っているから無原則に従うという考えが良くなければ、あなたに対する対応を考えてみて下さい。 特に好きではない物を会うたびに勧めてくる人は良いと思いますか? 大体はウザい人だと考えます。 もし、価値観の違う人を説得しようとしていれば、あなたはそのウザい人です。 これなら、ダリオ氏が言っているから無原則に従うではなく、ウザい人だと思われたくないからやらないとなると考えます。 これ以外にもダリオ氏の本には「理詰めで考えて疲れている人」が同意できるケースが多く取り上げられています。 もちろん、ダリオ氏は投資家なので投資に関する話に絡めて説明していますが、投資の部分を抜きにしても役立つ本だと考えます。是非、読んでみて下さい。

知らないことを恥ずかしいと思う人に注意しよう

  昔から気になっていたことですが、分からないことに対して「ごめんなさい」と謝る人がいました。私としてはかなり意味不明でした。 そりゃ、初めて聞くことに関して知らないのは誰もが普通だからです。 仮に知らないことを悪だとすると、全ての事を知ることで善になるわけです。はっきり言ってそんなわけありません。 こんな私の疑問にも『レイ・ダリオ』氏は答えてくれています。はっきり言って、ダリオ氏の本を読むと理詰めで悩んでいる人は安心できるのではと考えます。(ページ393 4.同期をとる c.知らないことを恥ずかしいと思う人に注意しよう。 レイダリオ氏が「知らないことを恥ずかしいと思う人」が悪いという理由は、目標を達成するより体裁を気にして進歩しないと言っています。 そう、間違うのは恥ずかしいからやらないという事です。 音痴の人が声を出すと恥ずかしいなどと言っていたら歌は上手くなりません。 自転車で足をつくことを恥ずかしいと思っていたら乗れるようにはなれません。 周りが、知らないことに対して謝ってきたら、その必要は無いことを根気よく伝えてください。誰しも、新しいことを始めれば知らないことは出てきます当たり前です。 自分自身も知らないことを指摘されたときは相手に失礼が無ければ謝らないでください。聞かれたことに関して「知らない」と言う事は悪くないわけです。 そうだ、知っているか聞かれて知らない場合に謝ってしまう場合は、誤るのではなく感謝してください。 ご足労してきた人の質問に答えられなかった場合は、「ご足労ありがとうございます。でも、質問の内容は知らないです」これでいいわけです。これで不要な謝罪が無くなります。

ヒューリスティックス

  成功している人が勧める本はいろいろありますが、共通するのは「行動経済学」です。行動経済学とは人の行動を中心にした経済学です。 人の行動は全て「行動経済学」とも言えますが、ここでは理詰めで解決できるものはあまり議論されません。どちらかと言うと、理屈に反する行動が研究として取り上げれます。 その中で「ヒューリスティックス」と言うものがあります。大雑把に言うと、手近な資源を使って判断するという事です。すでに知っている事、今見えることを判断基準にするわけです。その理由は「決断の速さ」と「低コスト」です。目の前で何かが発生した場合に、調べ事をしたり、指揮命令系統を使ったら時間が足りないことがあります。その場合、その当事者が持っている知識と技術で対処するわけです。 低コストとは、いわゆるめんどくささです。いちいち考えるのは面倒と言う考えです。もう少し厳密にすると、下らないことで会社の指揮命令系統は動かさないというものです。自分で考えれば一瞬だが、稟議書を書いていたらあなたは1時間、上司は1時間という時間が必要になります。 もう少し知られていない事実としては、現場警察官は「ヒューリスティクス」を多用しています。とりあえず現場判断で怪しいと思えば「容疑者」として拘束するわけです。ただ、この場合は後で綿密に調べたうえで釈放するわけです。 ただ、世間は「容疑者」を犯人と認識しているため非常に印象は悪いですけど。 この警察のヒューリスティクスもやや迷惑ですが、私たちが自然に行っているヒューリスティクスはさらに悲劇です。 悲劇の理由は、容疑者と認定したら、全て犯人にしてしまうところです。即答のためにヒューリスティクスを使うが、そのあとは放置するわけです。だから、問題が発生するわけです。 『行動経済学入門』ではこのヒューリスティクスについて細かく説明しています(ページ15 第二章)。その中で印象的なものを少しぼやかして紹介します。 質問として、以下の二人の女性像のうち、どちらの方が存在しそうか?です。 銀行で働く女性 平日は銀行で働き、休日は女性運動活動家として過ごす ここで、なぜか、平日は銀行で働く女性活動家の方が存在しそう!と判断するわけです。 数学で確率論を習っていれば、これは誤りだと一発で分かりますが、唐突に聞かれると「条件が悪い方」を選ぶわけです。 理由としては、具体的...

レイダリオ氏と歯科治療

  レイダリオ氏の気になった点は 歯科治療と自動車の修理は自分の責任と言う点です。 これに関しては同意出来ません。 ページ370

人の頭の配線はそれぞれものすごく違う 誰もサボタージュもしないし、敵意も無い

  考えすぎでいわゆる神経質と周りから認定される自覚がある人は、レイ・ダリオ氏の『人生と仕事の原則』をお勧めします。多分ですが、相当理詰めで考えることが癖になっている人はダリオ氏に共感できるのではと考えます。 ページ234に「すべて生理的なことであると理解する…彼らは意図的に非生産的な行動しようと…」という部分があります。 周りが理屈的に考えておかしいと感じる行動をした場合、あなたは何らかの意図があるのではと勘ぐってしまうと考えます。 あなたに敵意がある 相手はわざとサボタージュしている でも、これらが間違えであることをダリオ氏が説明しています。ただ、このアイデアは全く新しい物ではなく、「ハンロンの剃刀」と言われる言葉で古くから言われています。 ハンロンの剃刀とは、単なるミスを恣意的な行動と解釈することです。AppleのSiriが一部の分野に関して回答をぼやかした場合に、Appleはその分野を意図的に避けていると考えることです。この場合は単なるSiriの技術的欠陥であり恣意的ではないという事です。 ダリオ氏は、「人の頭の配線はそれぞれものすごく違う」と言っています。人の頭は統一されたコンピュータアルゴリズムやフォーミュラー(公式)で反応しているわけでは無く、全て違う回路やアルゴリズムで処理されているという事です。 誰が答えても1+1は2になりますが、その頭の中での計算方法は100人いれば100人が全く違う方法で計算しているわけです。目で1+1を計算式として解釈する方法は人それぞれです。そしてその演算結果を紙に書く方法も人それぞれが全く違う方法で行っているわけです。 このことを理解すれば、他人の間違えに関して今までよりは冷静になれると考えます。 話はずれますが、ドラレコで撮影される酷い運転の動画があります。実はあれも、完全に当人の責任ではないと考えます。乱暴に見える運転も当人からすれば何も問題が無いと感じているわけです。 ただ、残念ながらそんな人は運転と言う意味では生産性を極端に下げるので多数決で運転免許をはく奪する方向で動きます。 これらも、正義感を持つよりは、「人の頭の配線はそれぞれものすごく違う」と考えてみるべきです。