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モンドリアンの絵は既に高速で動いている

モンドリアンの絵に対してモビール彫刻の作家である「アレクサンダー・カルダー」( wikipedia )は絵画が動いたらどんな感じになるのだろうか?と言う閃きを口に出した時に 「私の絵画は既に高速で動いている」 と一蹴したと言われています(図録 純粋な絵画を求めて P13)。 これは興味あるエピソードですが、色々な見方が出来ると考えます。私が思いついたのは、意外にモンドリアン氏は考えが狭いというところです。持論はともかく、とりあえずモンドリアンの絵で動く絵画を実験してみても良いと考えます。 次に思いついたのが、アーティストは寄り道は出来ないという点です。芸術の手法は多くあり、モビールなどの動く彫刻や抽象画など幅広いです。その中でモンドリアン氏は自身の抽象画という部分にフォーカスをした結果の意見だったかもしれません。 まあ、この話で不仲になったかどうかは図録には書かれていませんが、強い創造性の間には、強い反発する力が現れるのではと感じました。 悲しい点ですが、個性を発揮する場合は交流関係は狭くなるのではと考えます。 あと、芸術家でなくても仕事などプライベートなことを話さない人は多いです。例えば、良く遊ぶ友人なのに仕事の詳細を知らないという感じです。これも、プライベートでは意見の衝突を避けたい結果なのかなと感じています。 Amazonで人モンドリアンについての本を探します

途中メモ センスの哲学 千葉 雅也 先天的、後天的の線引きこそあいまいです

  Amazonで購入します 書店で偶然見つけた面白そうな本です。「センス」という漠然とイメージだけで使われる言葉を考えている無いようです。まだすべてを読んでいないですが、最初の印象としては 「センスがいい」というのはちょっとドキッとする言い方…世間では気軽にセンスと言う言葉が使われている… (ページ10) がありました。これは怖く感じます。ドキッとさせる危険な言葉なのに気軽に使えている。アメリカの銃社会に通じるところがありそうです。 この本の中で疑問に感じたのは 18ページの例を著者は 「おや、違う話をまぜこぜにしていないか?」(ページ19) と突っ込んでいます。ただ、私は全て後天的に獲得したことという大枠でくくることが出来ています。そう、私が観た感じ混ざっていないのです。 「家から一番近い駅に行く」、「カツカレーを食べる」、「リンゴと聞けば意味が理解できる」 これらについて違う話を混ぜているように私は感じられません。全て後天的な学習による結果だと考えます。 ただ、これでも著者は後天的な部分と先天的な部分が混ざっていると言います。 まだ、結論は急ぎませんが先天的、後天的という話は論じている人の線引きの基準を明瞭にすることが非常に重要ではないかと考えます。

音楽理論は後から音楽を分類する学問です

  音楽と言うとほとんどは軽い話で終わります。流行りの曲も流行が過ぎれば忘れてしまうわけです。時々懐メロやクラシック音楽がヒットチャートぎりぎりまで肉薄しますがそれらもすぐに忘れられてしまいます。 しかし、音楽を少し知っている人は「音楽理論は重要だ」とか言う傾向にあります。「いや、そんなこと良いから演奏してくれ」と突っ込みたくなるほどです。まだ楽器を演奏しまくる方が迷惑では無いわけです。 実は音楽理論って自然観察や考古学、歴史などと同じで「過去に流行した音楽の分析手法」にすぎません。考古学が古代文明を作り出さないように、音楽理論も音楽を作り出さないわけです。 でも、ジャズでセッションするにはコード進行などの理論が必要では? あれは、「楽典」と区別されています。それらは理論と言うよりは「楽譜の読み方」「似たような和音の組み立て方(ボイシング)」を説明しているにすぎません。ただ、電気理論では回路図の読み方も理論としているのでこの分類は微妙なところでもあります。 良くうんちくとして言われるのが「新しいコード進行」と言うものですが、これも後から分析したらそうであったという事と言う事で、意図してそういう理論を使ったわけではありません。 ちなみに電気や化学は大学で基礎研究されたものが応用されるという流れですが、音楽の場合は音楽大学は過去の音楽の分析や分類をしますが、大学が新しい音楽を発信しているわけではありません。過去には「ミュジークコンクレート」を大学や研究機関などのアカデミック主導で普及させようとしましたが、失敗に終わっています。実は今流行している音楽は「近代音楽の技法」で作られた新しい曲なわけです。 この近代音楽の礎となっている理屈の一つとして「オクターブ」があります。ざっくりした説明ですと、ドの上のドがオクターブです。レの上のレもオクターブの関係です。この音を同時に鳴らすと心地よい音を感じることが出来ます。オクターブは2倍の関係なので、この関係こそ素晴らしい物であり自然の法則と考えられています。 しかし、単にほぼ無限に存在する有理数の一つであるわけです。だから、特にオクターブが自然の物では無いわけです。どちらかと言うと人が恣意的に選んだ数字なわけです。 ブルーバックスの「音律の音階の科学」でも、オクターブは 「神経生理学的基盤に基づく生得の部分と学習による部分が...

ビアーズタウンのおばあちゃんたちの株式投資大作戦(ウォール街のランダム・ウォーカーを読んで) 詐欺かインチキか

 『ビアーズタウンのおばあちゃんたちの株式投資大作戦』という本が日本で出版されました。私は直接読んだことは無いのですが、このタイトルから堅実な投資をして儲けを出すことが出来るという印象が強くなると考えます。 おばあちゃんの知恵とかおばあちゃんの何とかとか聞くと、年配者は人生で人間性を高め知恵を成熟させると勝手に思い込んでしまうわけです。しかし、それはただの決めつけでもあります。 良く考えれば年を取れば自動的に賢くなるなどおかしいわけです。まず、年を取ればボケます。頭の回転も悪くなります。ここだけ考えても「老人=成熟した知恵を持っている」は必ずしもそうでは無いわけです。 更に「老害」って言葉もあります。老人になると頭が固くなり人の意見を聞かなくなるというものです。 そう「老人は老害にもなり、成熟もするのです」。こう考えると若者と変わらないわけです。 あまり使いたくない言葉ですが「良いものもあれば悪いものもある」というあれです。「若者だから誠実」「年寄りだから成熟している」「若気の至り」「老害」とすべてのパターンがあるわけです。 話が長くなりましたが『ビアーズタウンのおばあちゃんたちの株式投資大作戦』という書籍は嘘であったと『ウォール街のランダム・ウォーカー』の201ページで書かれています。 その老人たちの投資は粉飾があり、一番大きかったのはそのクラブの会費も含んでいたことです。そう、運用ではなく会費で儲けていたわけです。 おばあちゃんたちの知恵を信じたいですが、残念ながら彼女たちは知恵もない普通のおばあちゃんだったという事です。

米国の買いオペとドル安の影響 - 通貨安でも実力が支える

連邦準備制度理事会(FRB)は、2008年のリーマン・ショック以降、量的緩和政策として大規模な国債買いオペを実施してきた。この買いオペの拡大に伴い、ドルは対円やユーロに対して長期的に下落傾向にある。ドル安は輸入品の価格上昇などを通じ、米国経済にマイナスの影響を及ぼしかねない。 しかし、米国がドル安の影響を相対的に小さく抑えられる背景には、豊富な資源と高い自給力がある。米国はエネルギーや食料分野で世界有数の生産国であり、ある程度の輸入依存度上昇も吸収できる。また、シェール革命により、エネルギー自給率を高めつつある。 加えて、シリコンバレーやハイテク分野での圧倒的な技術力は、ドル安でも維持できる競争力の源泉となる。生産性向上に寄与するイノベーションを継続的に生み出すことができる。 EU諸国が共通通貨ユーロを使用しながら、経済力に差があることも示唆的だ。通貨だけで国力が決まるわけではない。米国が実力を保てば、ドル安への対応力は高いと見込まれる。 ただし、買いオペがもたらすリスクを完全に無化できるわけではない。エネルギー輸入への依存度上昇や、ドル建て債務の負担増は懸念材料だ。過度のドル安は米国経済にも悪影響を及ぼしかねない。量的緩和の出口戦略が課題となっている。 正直、国債など債券は資金が少ない一般投資家には興味がありません。また、ポートフォリオに組み合わせることでリスクヘッジできるともいわれますが、それでも資金が少ないので意味は無いと考えます。 ただ、債権は経済を動かしている大きな要因でもあります。だから、投資を行うには知識として債権と言う言葉は覚えておくとよいと考えます。

急いで指示する無能な上司 - 自己中心的にリスクを押し付ける愚か者

 第1章「無能な上司の暴走」 上司は独裁者のように部下を支配し、本来持っているはずのリーダーシップが全く発揮されていない。「急いで結果を出せ」と指示するが、そのために必要な人員体制や資金面のサポートは一切ない。リスクを取らない上司の言動に部下は苦しめられている。上司自身の資質のなさが目立つ言動が多く、部下は上司を信頼することができない。このままでは組織の業績は悪化の一途を辿ることになる。上司の意識改革が必要不可欠である。 第2章「対話の重要性」 上司と部下の間には深刻な溝がある。「急いでやれ」と無理な指示を出す上司に対し、部下はリスクを訴えるが、上司は耳を貸そうとしない。このまま対立関係を放置すれば、組織は機能不全に陥る。建設的な対話を通じて相互理解を深め、信頼関係を築く必要がある。意見の相違を前向きに捉え、組織力を高めるチャンスとすることが大切である。 第3章「全体最適の実現」 部署の利益だけを追求する狭い発想ではなく、会社全体の利益を考える広い視点が必要である。「急げ」と指示する上司は自部署のことしか考えていない。部署の垣根を越えて連携し、シナジー効果を生み出すことが重要である。個人よりも組織の目的を優先させる価値観が求められる。 第4章「変化への対応」 組織は常に変化している。過去の成功体験に捉われることなく、環境の変化に柔軟に対応することが重要である。「急いでやれ」と昨日の延長で指示しても、状況は異なる。新しいことへのチャレンジを歓迎する風土が不可欠である。失敗を恐れずに試行錯誤し、困難な時こそ知恵を絞ることが成長の源泉となる。挑戦する姿勢こそが組織の活力の原動力となる。 第5章「多様性の尊重」 異なる意見や立場を尊重することが重要である。組織には多様な個性と背景を持つ人材が必要である。一人ひとりの違いを認め合うことで、新しい価値が生まれる。マイノリティの声にも耳を傾け、支配的な考え方にとらわれないことが大切である。「急げ」と一律の指示では個性は活かせない。個人の違いを活かすことが強い組織をつくる。 第6章「チームワークの強化」 組織の力はチームワークにある。個人の力は限定的だが、メンバーが知恵と力を出し合うことで、大きなシナジーを生むことができる。自分の属するチームの目標達成に全力を注ぐことが重要である。同じ目的意識を共有し、チームのために貢献する...

たとえ友人でも、相手の主体性を尊重する - 相手の決断を尊重すること

 第1章 相手の主体性を尊重することの重要性 人間関係を築くうえで、相手の主体性を尊重することは非常に重要です。相手が自主的に判断し行動する自由を認めることで、相手は自分らしくいられます。一方的な押し付けはかえって関係を損なうでしょう。 相手の主体性を信じることで、相手は自信を持ち、可能性が開花します。人は自分の決断とその結果に対する責任を取ることで成長できるのです。相手の自主性を奪うのではなく、尊重することが大切です。  主体性の尊重は相手への信頼と敬意の表れでもあります。相手の意見や選択を否定するのではなく、受け入れる寛容さが必要です。相手の人格と個性を理解し、支え合う関係を築きましょう。 人は誰しも、自分らしく生きる自由を求めています。相手の主体性を尊重するのは、その自然な欲求への配慮といえます。 win-winの人間関係を築くには、この姿勢が欠かせません。 第2章 過剰な関与はかえって有害になる  過剰に相手の行動に関与することは、時に思いやりの裏返しとなります。相手の自主性を奪い、自信を低下させてしまう結果にもなりかねません。 関与のしすぎは、相手を子供扱いするような印象を与えてしまいます。相手の意思が軽視されていると感じ取られる可能性もあります。過保護にならないよう注意が必要です。 むしろ、相手が自分で判断し行動する過程を大切にするべきです。失敗があっても、そこから学ぶ経験となります。寄り添い、相手の葛藤を理解することが必要です。  過剰な関与は親しみの表れであっても、相手の自立を阻害することになりかねません。相手の主体性を支える関わり方が求められます。 第3章 相手のペースを尊重する関係性 人にはそれぞれのペースがあり、それを尊重することが大切です。相手の行動の遅さにイライラしたり、スピードの違いで対立が起きてはいけません。 むしろ相手の個性としてペースの違いを受け入れ、我慢強く付き合う寛容さが必要です。時にはゆっくりと歩調を合わせることも必要でしょう。 相手のペースを強制的に変えようとするのは、関係を損ねる原因となります。相手の心情を汲み取り、可能な範囲で歩みをそろえる努力が望まれます。 お互いの違いを理解し合える関係があるなら、ゆっくりとした相手のペースもまた愛おしく感じられるのではないでしょうか。 第4章 相...

相手が話題を脱線させた場合の対応 ― 自分の義務ではない

議論や対話している最中に、相手が当初の話題から脱線し、関係のない話に方向転換することがあります。このような場合、自分には話を元の軌道に戻す義務があるのでしょうか。本解説では、この点について論じたいと思います。 話題の脱線は相手の責任 話が脱線するのは、話題提供者である相手の意思決定によるものです。したがって、話がその場で方向転換した責任は相手にあると見るべきです。 自分が話の監督責任を持っている訳ではありません。監督責任を放棄したのはむしろ相手の方です。従って、話題が元の軌道を外れたことの責任は相手が負うべきなのです。 自分に脱線修正の義務はない 話題設定の権利も責任も相手にある以上、自分には脱線した話題を強制的に修正する義務はありません。むしろ、相手の提案した新しい話題の方向性を尊重するのが礼儀正しい対応といえるでしょう。 無理に話を元に戻そうとする必要はなく、相手が望む新たな話題で議論を進めることを選択肢として検討可能です。話題設定権は相手にあることを認め、それに従うことが賢明な対応となります。 最後に 以上より、相手の脱線がその人の意思表示である以上、自分には話題を元に戻す義務はないと結論付けられます。むしろ脱線した新話題の有用性を探る柔軟な姿勢が望まれます。話題権は相手にあることを尊重し、新たな方向性を歓迎するのが賢明な対応といえます。

私には○○する権利がある と発言しているときには○○する権利など無い状態である

「私には○○する権利がある」という主張はよく聞きます。ただ、この言葉には無意識に抜けているところがあります。 まず、この主張をする人は既に○○に関する権利を持っていると考えています。これが、間違った認識なわけです。 では○○を具体的にしましょう。「私はこのグループに参加する権利がある」と主張している場合は、現在そのグループに入ることが認められていないということになります。仮にグループに入ることを認められていれば、そのような主張自体が無意味なわけです。 本書の ページ 156ではこの疑問に関して明確な回答を提示しています。 「私はキッチンを綺麗に使う権利がある」と家族が言っている場合、その家のキッチンは汚く、他の家族が散らかしている状態なわけです。 だから、「私には○○する権利がある」と言う場合は、その時点では権利など無いわけです。そして、その言葉は状態ではなく、未来への願望と他人に対しての主張があるわけです。 最後に、このことをAIチャットでディスカッションしてみました。是非、読んでください。 AIとのディスカッション Q: 自分には権利があるとう言動は、その権利を現在持っているわけでは無く、ない権利を要求していると考えてよろしいでしょうか? A: はい、「自分には権利がある」と主張する場合、必ずしもその権利が現在認められているわけではないというご指摘は妥当だと思います。 「~する権利がある」と主張されることの多くは、現状としてはその権利が保障されていないにも関わらず、あるべき権利を訴えている場合が多いと考えられます。 例えば、以下のような主張が該当すると思われます。 女性の社会進出の権利 同性婚の権利 医療への平等なアクセスをする権利 宗教の自由に関する権利 これらは、現状としては保障されていない権利を訴える主張です。 したがって、「~の権利がある」と主張する場合、それが現在の権利かあるべき権利かを明確に区別する必要がある、というご指摘は妥当だと思います。 Q: 自分自身が権利が認められていると認識がある場合、「私には権利がある」と主張などしないと考えてよろしいでしょうか? A: はい、その点についてはおっしゃる通りだと思います。 自分自身がある権利を現在認められていると認識している場合には、「私には権利がある」とあえて主張する必要はないと考えられます。 なぜなら...

フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方 をAIチャットで読みながら会話してみました

AIチャットは一時的に話題になりましたが、今では使えている人だけが使っている感じです。元々論文を読むような研究者、学者、医者、ITなどの専門家だけが使い、一般人にはそれほど普及していないと考えます。 正確には専門家はAIチャットを議論やブレーンストーミング、アイデア出し、頭の整理のために使っていますが、一般の人はネット検索と同じで、単発で質問して結果を得ているだけです。 料理のおいしいレシピについてはAIチャットで聞きますが、ここから疑問点や足りない食材を補う方法など追加で質問することはありません。ただ、これではAIチャットのごく一部しか活用していないことになります。 私はAIチャットを使う最初の方法として読書をお勧めします。読書会でみんなで一つの本を相談しながら読む事はよい事ですが、そういう機会は非常に少ないです。また、自分が読みたい本の読書会が開催されているかもわかりません。 だから、その相談役をAIチャットに行わせるわけです。 以下は私がAIチャットで読書した結果です。分かりやすいようにAIチャットにまとめてもらいました。 【はじめに】 本レポートでは、チャット内で議論された「本書」の主な内容について整理する。本書は、「バカ」と呼ばれる人々への対処法を提言した書籍である。 【本書の主な主張】 バカは行動様式であって人格的特徴ではないと定義づけている。 バカへの対処として、まず自分の中のバカな部分を自覚することを重視している。 バカだと決めつけること自体が最もバカな態度であると警告している。 感情の抑制と適度な表出のバランスが重要だと提言している。 バカに対する報復ではなく、建設的win-winの関係構築を目指すべきだとしている。 【まとめ】 本書は、偏見から自由な多面的な視点と、自己省察と他者理解の姿勢を説いた意義深い一冊である。「バカ」をめぐる対人関係の知恵が詰まっている。 以上が、本チャットで議論された本書の主な内容のレポートです。ご確認いただき、要約の妥当性をご意見いただければ幸いです。 こんな感じで読書中のチャットをまとめてくれます。これを読んで自分の理解した内容とAIチャットが感じたことの間に差異が無い事を確認すれば本の内容が頭に入りやすいと考えます。

自衛隊は軍隊という解釈で良い場合もあります

自衛隊は軍隊ではないという解釈があります。実際、日本の政治上では軍隊を持っていないという体裁を整えています。ただし、政治経済の一般的な書籍では正直そんなことはどうでもよいです。 大雑把に「軍隊=自衛隊=国防力と安全保障を提供する組織」という認識で問題は無いと考えます。別に何かの主義主張とか日本は軍隊を持つべきだみたいな話をしているわけではありません。 ただ、経済書に書かれている「軍事力」と言う言葉では自衛隊も含めても良いという考えです。仮に「世界の軍事力」と書かれていた場合、アメリカ軍、イギリス軍などと同列に自衛隊も含めても良いわけです。 と言うか自衛隊は軍隊ではないとか細かいことを言っている方々も、「日本の軍事予算」と言う言葉に何も疑問が無いわけです。仮に本当に自衛隊が軍隊でなければ日本の軍事予算はゼロ円なわけです。そう、そもそもそういう突っ込みをする人って特に一貫性が無いので戯言だと思ってよいかもです。 全ての書籍には説明したい「メイントピック」が存在します。そして、それに注力するために細かい部分の説明を犠牲にすることがあります。「NHKを国営放送だと言う」「接待交際費を販促費用と呼ぶ」などです。それらをマーケティングの話としているのであれば大した問題ではありません。ただ、実際は「NHKは公共放送」「接待交際費は販促費に仕訳されない」などの間違えはありますが、放送の話や会計論の話をしているわけでは無いので深い突っ込みは無用です。下手に突っ込むと話をサボタージュしているのではないかと相手に誤解されます。 ハッキリ言ってそのような行為は、「邪魔したい」「相手が気に入らない」「自分の知識を無駄に披露したい」という害ある行動です。 レイダリオ氏は実業家です。歴史家でもないし、軍事評論家でも、会計論の学者でもありません。だから、細かいところが間違っていたとしても問題は無いと考えます。 レイダリオ氏は本書のページ 199 で「国内の強さと軍事力の強さは密接にかかわっている」とあります。それはアメリカやイギリスは当然として、日本にも言えることです。そして、レイダリオ氏は日本の自衛隊も軍隊だとして話を勧めています。 本書は非常に内容が多いです。だから、メイントピックではない部分に気が散らないように集中して読むことが重要です。 自衛隊は軍隊である! 少なくとも本書を読み進める上で...

バカに注意する前に、具体的に何に対して反応しているか自問してください

あなたの前にバカが現れた場合、注意したりするなど反応する人は多いです。しかし、本書ではそれはよろしくないとしています。理由は、バカがあなたに対してどのような害を与えたかまだ分かっていないためです。良くある例えだと、「診療せずに処方する」と言うものです。どうですか? 医者があなたを診断もせずに治療法を提案されたらどう思いますか? そんな医者は信用できません。そして、あなたはその医者のように自分自身を診断しないで薬を小穂しているわけです。 バカに苛立ちを感じた時に、具体的に何によって傷つけられたのかを確認することは有効だと思います。 以下のようなメリットがあると考えられます。 漠然としたイライラではなく、自分が具体的に何に腹を立てているのかを自覚できる。 自分の価値観とのギャップを認識し、冷静な分析がしやすくなる。 傷つけられた要因を特定することで、その要因を軽減する方法を考えられる。 自分の反応の大きさが傷つきの内容と照らし合わせて適切か判断できる。 自分の認識の甘さや勘違いを発見する機会ともなりうる。 傷つき方を知ることで、回復する方法を見出せる可能性もある。 したがって、ご質問の方法は有用なアプローチだと言えるでしょう。

大雑把なバカな分類 フランス哲学教授に学ぶ 知れば知るほど疲れないバカの上手なかわし方

本書では、極力バカを分類しないとしています。理由としては 本書がバカの分類を避けているのには、以下のような理由が考えられます。 バカの定義や範囲自体が曖昧で、明確な分類は困難。 特定の分類に当てはめると、その人の本質を見失う危険性がある。 一人の人間には多面的な側面があり、状況によってさまざまに変化する。 特定の分類で人を判断することは、偏見や差別を生む可能性がある。 分類すること自体が、バカの特徴の一つではないか。 むしろバカの背景を理解し、個別の対応を考えることが建設的。 バカもまた、成長と変化の可能性を秘めた人間である。 分類ではなく包括的な視点で向き合うことが大切。 このように、本書はバカの分類ではなく個別の理解を重視していると考えられ、それは偏見を避ける上で賢明なアプローチだと言えるでしょう。 としています。この手の本で勘違いされるのは、「自分とは違うバカと言う集団の意識をより強くする」というものです。本の外観やプロモーションもそれを煽るようなミスリードをしています。しかし、少し読めばそんな本ではないことが分かります。 そう、本書は「バカと言う動物図鑑」じゃないわけです。 ただ、それでも大まかにバカの特性をまとめているところもあります。今回はそれを説明します。ページ5ではバカな人が行う事として 戯言 偏見 迷信 不寛容 先入観 教条主義 虚無主義 としています。戯言とはいわゆる屁理屈の事です。いわゆる揚げ足取りです。偏見は自分と相手を同じ領域で見ないというものです。迷信はいわゆるオカルトとか噂話です。先入観は見てもないアニメを見たかのように言ってしまう事、教条主義は「先生が言っていたから」というもの、虚無主義は学校なんて、会社なんて意味が無いという事です。 どうでしょうか?これらの分類に当てはまる問題は見たことが無いでしょうか? 本書を読む前に是非考えてみて下さい。

フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方 実は誰がバカなのか分かると衝撃的です

バカを何とか!という本の殆どは、「バカじゃないグループに属する自称バカじゃない自分」が「バカと決めつけたグループを攻撃する」本であったりします。また、自分が決めつけたバカ像を他人に同意してもらいたいという傷の舐めあい系だったりします。 そう、自分はバカじゃないけど、バカを相手しないといけないと勝手に困っている人が喜ぶ本であったりします。 今回紹介する『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』はそれらとは大きく違う本です。 マーケティング的には同類の本として売られていますので、幸い勘違いして手にされた方は違和感があると思われます。 この本の大きなポイントは、バカのステレオタイプ的分類を意図的に避けているところです。著者のマクシム・ロヴェール氏によると、このような分類をすると皆さんは短絡思考をしてしまうから避けたという事です。そう、一例だけを提示すると自分はそういうキャラではないから安心と言う誤った考えを持つ危険性があるわけです。 本のすべてを書くとネタバレと著作権的に問題があるので一部だけにしたいと考えます。 本書では「バカを観察する者はいなく、当事者しか存在しない」としています。あなたが誰かをバカと認定したらあなたもそれにかかわっているという事なのです。これは、この本を読むテーマとして重要になります。 次に「バカは絶対的なものではなく相対的なもの」としています。単に二者間の程度の違いの話で、今目の前にいるバカは、場所や時間が変わればバカではないか、さらにひどいバカであるかどちらかと言う事です。これは皆さんにもあるのではと思います。若い時に一緒に遊んでいた仲間も今では会いにくい関係になっているなどです。これはよく聞きます。 最後に、あなたがバカだと思っている人も、相手もあなたをバカとしています。 この本では「バカの上手なかわし方」とありますが、バカとは人物を示しているわけではありません。状態を示しているわけです。そして、その状態はあなたの心の中に発生するわけです。その状態をかわす方法が本書に書かれているわけです。ここまで書けば分かったと思いますが、バカとは主体性を持った動物すべてに当てはまる事です。 著者は家にいるバカに仕事や生活を荒らされていると書いています。結論は書かれていませんが、私はペットとしての犬だと考えています。 その犬に関するバカは...

釈迦に念仏 は大きな悪影響があります

「釈迦に念仏」という言葉があります。意味としては「達人に対して素人が教える」みたいな意味です。そして、この意味はどちらかと言うとウザい事はするなと言う考えが強いです。 達人に説明をしてもウザいだけだからやめよう。という感じです。迷惑なのは達人側で、念仏を唱える側の悪影響については言及されていません。 これに関して「レイ・ダリオ氏」はやや異なった意見を言っています。 『人生と仕事の原則』のページ404では、「ベーブルースから野球のレッスンを受けているときに、野球を知らない人がルースに対して議論を吹っ掛けることは、全体に害がある」としています。 そう、釈迦に念仏は釈迦だけが迷惑なわけでは無く、その周りの人全員に問題があるわけです。 ただ、ダリオ氏も「ルースが最高のバッターであったとしても、その指導を全て鵜呑みにすることも間違っている」としています。 「釈迦に念仏」や「野球素人がベーブルースにバッティングの議論を吹っ掛ける」事は意識して止めてください。 そして、誰しも自然とやってしまっています。 この癖を止めるには、こちらが教わっているときは聞くに徹することだと考えます。反対に指導しているときに批判されたら、「よく知っていますね。本当に私の指導が必要なのですか?」と返してください。 これが平和で時間を有効活用できると考えます。

ルボンの群集心理の「黴菌」という言葉に反応するとタレブにバカにされます

ギュスターヴ・ル・ボンの著書である「群集心理」のページ19では群集を「黴菌」としています。これに関し武田砂鉄氏はNHKの番組の中で反応しています。おおよその意見としては 「今、こんな発言をしたら絶対炎上する」 です。私も一瞬そう思いましたが、原文を当たってみることにしました。こういう意味でインターネット時代はうれしく、群集心理の原文を見ることが出来ました。もちろん、私はフランス語は読めないので、とりあえず該当の部分を日本語版と比較して突き止めました。 Google翻訳を使ったところ、黴菌と訳される部分はmicrobesと書かれています。フランス語の意味は単に微生物です。 そう、群集心理の日本語訳がやや変なわけです。日本語で黴菌(バイキン)とは、「当事者に悪影響を与える微生物」という意味で使われています。だから、そんなものと人間を一緒にしたらいけないという意識が働いたと考えます。 すこし訳者を恨みたくなりますが、ある意味これもプロモーションとか販売促進の一環かもしれません。人々を黴菌扱いする本と言うことで炎上して話題になるわけです。そう、今でいう炎上マーケティングです。 ちなみに、黴菌と言う単語は冒頭で出てくるだけで、後は微生物とか適切な言葉が当てられています。だから、私は最初に黴菌と言う言葉を使ったのは販売促進の手法なのではと考えています。 他にはこの現象は人々の短絡的な部分を表に出しているのではと考えます。そう、言葉だけに反応して動くわけです。文章全体を見て判断するのではなく、単語で脳が逝ってしまうわけです。まあ、最悪です。ChatGPTは賢くなっているのに、人間の方は昔のデジタルコンピュータによる構文解析以下の知性になっているわけです。 痛烈に人を馬鹿にする「ナシム・ニコラス・タレブ」という著者は、単語だけで反応するのは良くないと言っています。まあ、当人はアホとか馬鹿とか間抜けとか言っていますけど。 「バカな人はココナッツ島でココナッツを探す」と言っています。正直、私はココナッツ島は知らないですけど、文脈から言うと「ココナッツ島という場所は名前だけでココナッツなど無い」と思われます。これに対して、そういう名前が付いているからココナッツがあると思い込むのは短絡思考すぎると警告していると考えます。 タレブは「宗教」と言う言葉は場所や時代で示している物は全く違うと言っ...

定例会議は全体の効率を上げる

最近はデジタルツールの進歩で昔ながらの定例会議は減っています。10年前ですら私の所属していた会社も定例会議と言うものがありませんでした。疑問に思ってマネージャーに聞いてみましたが、話したいことがあれば個別に話せばよいし、グループウェアや社内のシステムに入力すれば良いとのことでした。 実は私の人生では定例会議が無かった職場はそれが初めてでした。大体は週一での全体会議がありました。現場作業ですと毎日朝礼があったりします。 私としてはそれらは、情報の共有として良い仕組みだと考えていました。私の言いたいことも全体に伝わりますし、他のスタッフも同様です。 ただ、定例会議が無い組織ではそれはありませんでした。 案の定、定例会議が無かった会社では、トップダウンの指示だけで、ボトムアップと言うか現場の情報がそれぞれの個人で止まっていた感じがあります。 当然聞けば教えてくれますが、全員と立ち話する時間も無いですし、そもそもその情報の存在を知らないわけだから無理なわけです。 ただ、レイダリオ氏は ページ531で「精密に組織を動かすには定例会議をしよう」と提案しています。 残念ながら、ダリオ氏は理由の詳細は説明していません。なので気持ち悪さは残りますが、ダリオ氏又は彼の会社であるブリッジウォーター社は当然定例会議が行われていると考えます。 私としては、最初に述べた通り定例会議があればお互いの情報をシェアできて役立つことは多いと考えます。そのため賛成です。 ダリオ氏の本に関しては、この件に関して「定例会議は良い」と言っているだけで理由を深堀していないのが残念なところです。

価値観を共有できない人とは関わらないのが平和

人生を無駄にしている一つの原因は、「価値観が違う人を説得しようとしている」ことです。良くあるのは、自分が「簡単に」理解できることは相手も当然簡単に理解できると勘違いしていることです。 この勘違いによってお互いがストレスになるわけです。絶望的ですが幸いなこととして、「人の性格は変えられない」と言うものがあります。最悪な例として「刑務所」とか「更生施設」が失敗している点です。私の意見ですが、どちらも懲罰としての機能しか満たしていないと考えます。 そう、国の賢い方々も人を更生することは無理なのです。だから、分野外であまり賢くない私たちも出来ないのは無理なのです。 レイダリオ氏は ページ399 同期をとる で「価値観での違いを調整できない…その人との関係を保つ価値があるか」と言っています。 そう、ダリオ氏でもお互いの価値観を調整することは出来ないわけです。無理なら関係を止めると言っているわけです。 最初に言った通り、人生を無駄にしている要因としては、「人は説得すれば必ず理解できるという幻想にとりつかれているところです」もちろん、そういうケースが完全に無いわけではありませんが、殆どないと考えても良いわけです。 ダリオ氏などの有名人が言っているから無原則に従うという考えが良くなければ、あなたに対する対応を考えてみて下さい。 特に好きではない物を会うたびに勧めてくる人は良いと思いますか? 大体はウザい人だと考えます。 もし、価値観の違う人を説得しようとしていれば、あなたはそのウザい人です。 これなら、ダリオ氏が言っているから無原則に従うではなく、ウザい人だと思われたくないからやらないとなると考えます。 これ以外にもダリオ氏の本には「理詰めで考えて疲れている人」が同意できるケースが多く取り上げられています。 もちろん、ダリオ氏は投資家なので投資に関する話に絡めて説明していますが、投資の部分を抜きにしても役立つ本だと考えます。是非、読んでみて下さい。

知らないことを恥ずかしいと思う人に注意しよう

  昔から気になっていたことですが、分からないことに対して「ごめんなさい」と謝る人がいました。私としてはかなり意味不明でした。 そりゃ、初めて聞くことに関して知らないのは誰もが普通だからです。 仮に知らないことを悪だとすると、全ての事を知ることで善になるわけです。はっきり言ってそんなわけありません。 こんな私の疑問にも『レイ・ダリオ』氏は答えてくれています。はっきり言って、ダリオ氏の本を読むと理詰めで悩んでいる人は安心できるのではと考えます。(ページ393 4.同期をとる c.知らないことを恥ずかしいと思う人に注意しよう。 レイダリオ氏が「知らないことを恥ずかしいと思う人」が悪いという理由は、目標を達成するより体裁を気にして進歩しないと言っています。 そう、間違うのは恥ずかしいからやらないという事です。 音痴の人が声を出すと恥ずかしいなどと言っていたら歌は上手くなりません。 自転車で足をつくことを恥ずかしいと思っていたら乗れるようにはなれません。 周りが、知らないことに対して謝ってきたら、その必要は無いことを根気よく伝えてください。誰しも、新しいことを始めれば知らないことは出てきます当たり前です。 自分自身も知らないことを指摘されたときは相手に失礼が無ければ謝らないでください。聞かれたことに関して「知らない」と言う事は悪くないわけです。 そうだ、知っているか聞かれて知らない場合に謝ってしまう場合は、誤るのではなく感謝してください。 ご足労してきた人の質問に答えられなかった場合は、「ご足労ありがとうございます。でも、質問の内容は知らないです」これでいいわけです。これで不要な謝罪が無くなります。